晩夏の挽歌

katakanize2009-08-26

21日、かげわたり宮嶋君の発案で、池袋でビアガーデン呑み画策。かげわたり家常・宮嶋・自分、松瀬君オサムン、元かげわたりT君のメンツ。
が、諸般の事情でコストパフォーマンス低めのアレになりそう、ってことになり、結局、南池袋・明治通り沿いの行きつけの飲み屋でインドア呑み。

どういう会話の流れからだったか、某アニメの登場以降、コミュニケーションにおける諦観や放棄を、露悪的に肯定・正当化するような筋立ての創作が蔓延し過ぎた。いま、そういったムーブメントを通過し、終焉を観てきた世代が作るべきなのは、理不尽さややりきれなさを抱え見つめつつも、他者や社会と真正面からやり合っていくような物語なんじゃないか、てな感じの話になり、侃々諤々、てか喧々囂々議論する。なんか喋り過ぎてこめかみが痛くなるほど。明け方解散し、なんとなく無駄に長く歩いてみたいような気分になって、自宅まで1時間強歩いて帰る。


22日、日比谷野音bonobosのライブ観覧。


開演まで時間に余裕があったので、銀座のggg細谷巌さんの『LAST SHOW』展を観る。細谷さんのディレクションした広告ポスターはどれもシンプルで力強いものだったけど、特に興味深かったのは地下フロアで展示されていた、新作のグラフィックデザインの作品群だった。各媒体での細谷さんの発言を元に、細谷さん自身が新たにグラフィックを描き下ろし、秋山晶さんが構成を担当したもの。細谷さんのミニマルな図案と相俟って、キャプション的に添えられた「細谷語録」が、いっそう深く心に浸透する。ひとつひとつの言葉、ひとつひとつのデザインが、丁寧に紡がれている印象を受けた。直言的な文言も、厭味にならず、柔らかな輪郭を持って伝わってくる。自身の表現に対する確固たる矜持があればこそ、過不足ない言葉で語ることができるのだ、と思わされた。もっともらしい理屈にまみれた美辞麗句なんてものは牽強付会に過ぎないのではないか。言葉はお飾りのためにあるものじゃない。デザインにおいてはなおのこと。


で、酒類買い込んで野音へ移動。bonobosの世間的な認知度の程っていうのは知らんかったのですが、数年前野音で某邦楽バンドのライブ観たときは、後のほうの座席はプレスやレーベル関係と思しき人達がパラパラといるくらいで、観客もミドルテンションで割とまったりと観てるようなイメージだったので、bonobosも大体そんなもんかなーと思って行ってみたら、なにげに超満員の人出でびっくり。あと、bonobosファンは女の子が多い印象があったのだけど、男二人連れとかで観に来てる人らもそれなりにいて、そのあたりはフィッシュマンズ周辺から流れてきてる人もいるのかな、と邪推してみたり。

夏の日の暮れかかりの時間帯の野音ってのは、もうそのシチュエーションだけでたまらない感じだけど、こういう場にふさわしいのはやっぱり享楽的な音楽。小利口そうなパフォーマンスより、アホ踊りで乗っかってく感じが良いのです。ライブ中程で演奏していた、曲名はわからないが、ダブ調の曲が気持ちよかった。クドいくらいに引きずるディレイ、頭の芯が揺れるようなリバーブ。はためく吹き流しに反射する光。これを聴き、見つめる片手にアルコール。夕暮れどきの空気。ヒグラシの声。格別。


23日、ニューオータニ美術館で『謎のデザイナー 小林かいちの世界』を観る。

大正〜昭和初期にかけて、絵葉書・絵封筒・便箋などのデザインを手掛けていたという人物。制作当時の時勢を反映してか、その作風はどことなく退廃的。描かれる女性像の大半が顔のパーツを省略されているのも、デザイン・印刷加工上の都合もあるのだろうけど、なにかデザイナーの視点を代弁しているようにも思えた。突き放しているようでもあるし、潔癖さの表れのようにも思えるし。

活動していた時期・分野が近いことから、竹久夢二と関連づけて紹介されることが多いようだけれど、個人的にはミュシャの作品に近い印象を受けた。夢二よりも、より図案化されているというか、省略の手つきがデザイン的だと思う。夢二より、女性への目線を対象化しているようにも思える。平たく言うと「エロくない」。あと、色づかいがとにかく美しい。強いコントラストを見せる配色でも、エグ味がなく、柔らかくまとまって見える。絵葉書サイズの大きさに収まっているのが、なんだか贅沢なことのように思えてくるほど。

夜、かげわたり練習。なんか匙加減のコツが解ってきた気がする。課題はまだ、山ほど。もっともっと。まだまだ。