シアン

富士見坂

先週から職場が変わった。これまで全く経験のなかった業種だが、ある意志を持って、相当に遅まきながらも挑んでみようと思った業種。戸惑いもあるが、腹を括って腰を据えて臨んでいこうと思う。まだまだ、行く先は茫洋としているのだけれど。


ここのところ、なにかと谷根千地区に足を運んでいる。殊に谷中界隈の、俗っぽさと鄙びた風情の相俟ったゆるい空気感が面白い。東京であって東京でないような、だけど確かに東京にしかあり得ない・存在し得ない風景だと思う。その種の街の姿を収めた写真はないかなと思ってネットをあれこれ覗いていたら、こんなブログを見つけた。単純に美しいとか面白いとかって言葉じゃ言い表せない、なんとも言えない趣きがある。こういう目線を持ち続ける事はすごく意義のあることだと思う。

僕の知人にもそうした目線を持っている(と僕が勝手に解釈している)K君という人物がいて、右サイドバーのリンクの「310000」というサイトを運営してさまざまな都市の風景の写真をそこで公開しているのだけれど、K君の切り取る風景には、過剰なものはほとんどないのに常に何がしかのドラマを想起させる強度のようなものがあって、自分自身東京や都市というものについて考える時、ついK君的なフィルターを通して見てしまうようなところがあり、それは少なからず、自分の書く物や語る事やものの見方に影響を与えているのだと思う。

というようなことを漫然と考えていたところそのK君から連絡があり、金沢に旅行中とのことだったのだけれど、雪降る兼六園で、偶然にも8年来音信不通だった大学時代の知人に遭遇してしまったのだという。さすがK君。レンズを介さずともドラマを呼び寄せてしまう男。


北陸でK君が運命の再会(?)を果たしたその日、こちらは偶然ではなく必然でタケイチ君と再会を果たし、こまばアゴラ劇場France_Panの公演「ヤン・アンリ・ファーブルの生涯」を観に行った。

簡潔かつ率直に感想を述べてしまうと、正直微妙な作品だった。先進的な表現を標榜しているのだと思うけど、なにか、目新しいことをしようという意志が空回っているように見えた。身体表現的なシークエンスがあったり、コント的なやりとりがあったり、メタ的な次元にジャンプするような台詞が発せられたり、各々の場面のセンスは大きく間違ってはいないと思ったけど、あまりにも移り気すぎて、結局のところ何を表したいのかということがいまいち汲み取りきれなかった。足し算であれこれと盛り込みすぎて、ひとつひとつのディテールの部分まで目が行き届いていないというか、統御しきれてないように感じた。なにか、もったいない感じの作品だった。

終演後には宮沢章夫氏をゲストに招いてのアフタートークが催されて、なかなか手厳しいツッコミもあったけど、今の演劇界の気ぜわしいような潮流の中で、ひとりひとりの劇作家はどのように在るべきか、という話はかなり興味深かった。「巧い演劇」のメインストリームのようなものに抗いつつも、いま一度、表現の技術を鍛えるということを見直すのもまた必要だ、というような内容だったと思う。表層的なオルタナっぽさに耽溺して自家中毒を起こしているようではいけない、ということなのかなと思った。「神は細部に宿る」なんて言葉を思い出したりもした。


明けて今日、所用あって池袋で知人のY君と会い、いろいろと話をした。

近況報告、前日の劇の話、先々のことへの漠とした不安、だいぶ愚痴っぽくもなってしまってY君には申し訳なかったが、そうして何くれなく話すことで、おぼろげではあるけど、したいこと/すべきことが形になってきた気がした。Y君もなにかと苦悩しつつも、自分なりの方策を模索し続けている。そうした人と話をすることが自分自身励みにもなるし、グダグダ言ってる場合じゃないという気にもさせられる。ただ思っているだけでは何も始まらない。動き続けていなければ感覚は鈍る一方なのだと思う。


なんかいろいろ書き過ぎたかもしれないと今更のように思いました。寝ます。